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4.言語記号の性質

2010/07/24 12:32 に 2010 seibunsite が投稿   [ 2010/07/24 12:37 に junichiro inutsuka さんが更新しました ]

ソシュールの能記・所記の構造における第三項

彼は所記という語によって概念をさしているが、まさにその同じ表現を用いて彼は「言語記号は、物と名称ではなく、概念と音響信号を結びつけるものである」と明言しているのである。しかしそのすぐ後、記号は所記に対して「現実におけるどんな自然のつながり」も持たないから、記号の性質は恣意的であると確言する。この推論が、はじめの定義に含まれていなかった第三項の、無意識の、陰で行われた援用によって、ゆがめられていることは明らかである。その第三項とは、物そのもの、すなわち実在物である。ソジュールは、soeur「姉妹」の概念が能記sorと結ばれていないと言うが、それにもかかわらず、この観念の実在物realiteのことを考えているのである。・・・はじめに記号の定義からはっきりと排除された物が、回り道を通ってそこにはいりこみ、永続的に矛盾を住みこませているのである。というのは、原理として-そして正当にも-言語は形式formeであって実質substanceではないとするなら-ソシュールもきっぱりと断言したとおり-、言語学はもっぱら形式の学であることを認めなけれならないからである。そこでsoeur「姉妹」やboeuf「牛」といった実質を記号の内包の外におく必要が、ますます緊急なことになる。ところで、一方ではbofと、他方ではoksと、同じ実在物との関係を恣意的とみなす根拠があるのは、ただ、boeuf「牛」という動物を具体的で実質的な特殊性において考えたときだけである。よって、ソシュールの、言語記号を定義するやり方と、記号に付与する基本的性質との間には矛盾があるのである。   p56

能記と所記、心的表象と音響心象は、実際には同じ一観念の二つの面faceであり、抱合するものとされるものとして一つにまとまって構成されているのである。能記は概念の音による音訳であり、所記は能記の心的対応物である。能記と所記とのこの共実質性consubstantialiteが、言語記号の構造上の統一を保障する。   p58

恣意的
恣意的であるというのは、他の記号ではなくてこの記号が、現実の他の要素ではなくてこの要素に適用されるということなのである。この意味において、そしてこの意味においてのみ、偶然性を問題にすることが許されるのであるが、それでもなおこの問題にある解決を与えるよりは、むしろひとまず注意を促しておいて、さしあたりはこの問題から手を引くことになろう。なぜなら、この問題は、かの有名な「自然か人為か」の問題にほかならず、天くだりの裁断にまたねば解決できないからである。実際これは、言語学の用語に置き換えられてはいるが、精神と世界との一致という形而上の問題であり、おそらくいつかは言語学者がこれに取り組んで成果をあげることもできようが、さしあたりは放置しておくほうがよい問題であって、この関係を恣意的として措定するのは、言語学者としては、この問題、および話し手sujet parlantが本能的にこの問題に下している解決から身を守る一方法なのである。話し手にとっては、言語と実在との間に完全な相等関係が存在する。つまり、記号は、実在を覆い、それを支配する。それどころか記号は、まさに実在そのものである。実をいえば、話し手の観点と言語学者の観点とは、この点においてあまりにもちがっているから、名称の恣意性に関する言語学者の断言も、話しての正反対の感じ方を論破するには至らないのである。・・・恣意性の領域は、こうして言語記号の外に追いやられてしまう。   p59

表意作用
変化したり、不変のままであったりするのは、能記と所記の間の関係ではなくて、記号と対象の間の関係、すなわち名称の対象に対する動機付けmotivation objectiveのことであって、そのようなものとしては、さまざまな史的要因の作用をこうむるのである。   p60

体系、必然性
体系とは、その諸要素の一段上に立ってこれを説明するある構造の中における、諸部分の配列と相応のことである。そこでは、すべてがまことに必然的であるから、全体と細部との変容は相互に条件付け合う。価値の相対性は、
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