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Benveniste

一般言語学の諸問題

PROBLEMES DE LINGUISTIQUE GENERALE
エミール・バンヴェニスト
みすず書房,1983.4.8

16.代名詞の性質

2010/07/24 12:48 に 2010 seibunsite が投稿   [ 2010/07/24 12:50 に junichiro inutsuka さんが更新しました ]

代名詞の問題は、ことばlangageの問題であると同時に言語langueの問題であること、いなむしろそれがまずことばの問題であるからこそ、はじめて言語の問題でもあるのだ・・・代名詞はことばの記号である・・・人称代名詞をわたし、あなた、かれという三つの用語を含むものとする通常の定義そのものが、まさに人称の概念を破壊していることを知らねばならない。人称はただわたし/あなたにのみ固有のものであって、かれの中にはかけているのである。   p234

わたしの分析

長大な言語のテキスト-たとえば科学論文-で、わたしもあなたもただの一度も現れないものを想像することは可能である。だが反対に、短い話されたテキストで、この二つが用いられていないものを考えることは困難であろう。・・・わたしは、それが含まれている話の現存によって、かつただそれのみによって同定されうるものである・・・   p235

並行的に、わたしはまたわたしという形の現存としてもとらえられねばならない。わたしという形は、それが発せられる言行為のなかでなければ、いかなる言語としての存在ももってはいないのである。したがってこの過程には、現存が二重に結び合わされているわけである:すなわち、指向する者としてのわたしの現存と、指向される者としてのわたしを含む話の現存である。   p236

此処、今、私 話し手への指向

これceは、いまの話の現存と同時になされる顕示によって示される対象ということになるのであって、その形の中にある陰伏的な指向(たとえばisteに対立するhic)がそれをわたしに、またはあなたに連合させるのである。・・・すなわち、ここいまは、わたしを含むいまの話の現存と共外延的・同時的な空間的・時間的現存の境界を画定する。   p236

話し手sujet parlantへの指向は、いままであまりにも軽々しく、また自明視してとり扱われてきた。・・・根源的であると同時に基本的な事実は、これらの代名詞的な形が現実にも、空間や時間のなかの客観的な位置にも関係するのではなく、これらを含む、そのたびごとに一回きりのものである言表行為に関係していて,そしてそれによって、その固有の用法を反映することなのである。・・・その問題というのは、主体間のintersubjectif伝達の問題にほかならないのである。ことばはこの問題を、現実に関しては非指向的な虚記号の集合をつくり出すことによって解決した。これらの記号は、つねに待機の状態にあって、話し手locuteurによってその話のおのおのの現存のなかに導入されるやただちに実となるのである。これらの記号は、実質的な指向が欠けているために誤用されることがありえず、なにごとも断定asserterせぬゆえに真理の条件に従わず、いかなる否認を受けることもない。その役割は、一つの切り換え-これをことばの話への切り換えとよんでよい-の道具を提供することにある。わたしを口に出す唯一の人物として自己を同定することによって、おのおのの話し手は、かわるがわるみずからを主辞の位置に置くのである。したがって、その使用には話の状況が条件なのであって、しかもそれ以外には何の条件もない。・・・それゆえ、この記号は言葉の行使exerciceに結び付けられているわけであって、話し手を話してとして宣言するものなのである。   p238

三人称

11.名詞文について

2010/07/24 12:47 に 2010 seibunsite が投稿   [ 2010/07/24 12:48 に junichiro inutsuka さんが更新しました ]

動詞形を持ち込むやいなや、名詞文は、その本来の価値を失ってしまうのであって、その本来の価値というのは、言語表現と物の道理との間に含蓄されている関連の不変性non-variabiliteという点にある。名詞文が一般的真理を定義できるのは、表現を特定のものとする動詞形をすべて排除しているからである。

・・・

「名詞文の価値は、存在の動詞を伴った文と対照させてみるときに明らかになる。名詞文のほうは、二つの名詞的要素の間に等価関係をうち立てる、一種の定性的な等式である。・・・名詞文の述辞は、それが形容詞である場合にも、一つの本質的な価値を持ち、主辞の本質の欠くべからざる一部を表現するのに対して、存在の動詞の補辞complementは状況を示す価値しか持たず、(たとえ恒久的なものであろうとも)主辞のあり方の一つの偶有的性質しか表していないのである」 M.L.Sjoestedt

   p162

8.言語学における構造

2010/07/24 12:45 に 2010 seibunsite が投稿   [ 2010/07/24 12:46 に junichiro inutsuka さんが更新しました ]

構造structure、構造的structural

フランス語を用いるヨーロッパの言語学会で構造という語について一般に用いられている用法に限って、最小限度の定義を与えることを可能にする、いくつかの特徴を強調してみよう。根本の原理は、言語は体系をなしているということである。しかもこの体系は、そのあらゆる部分が連帯関係と依存関係によって一つに結ばれているのである。この体系が単位を組織し、それらの単位というのは、分節された記号であって、相互に区別し合い、限定しあっている。構造主義の学理は、要素に対する体系の優位を説くものであって、形式上の範例におけると言連鎖におけるとを問わず、要素間の関係を通して体系の構造を明らかにすることを目標とし、かつ言語に生ずる変化の、有機的性格を示すものである。

5.動物のコミュニケーションと人間のことば

2010/07/24 12:38 に 2010 seibunsite が投稿   [ 2010/07/24 12:39 に junichiro inutsuka さんが更新しました ]

形態素と音素、意義の要素と体系

蜜蜂のメッセージは分析を許さない。そこにはただ一つの総括的内容しか見られず、見られる唯一の差異は報告される対象の空間的位置に結びついている。しかも、この内容をその構成要素すなわち形態素に分解し、その形態素のおのおのを言表の一要素に対応させるようにすることは不可能である。人間のことばははまさしくそのことによって特徴付けられている。それぞれの言表は、一定の規則に従って自由に結合される諸要素に還元されるので数はそれほど多くもない形態素が著しく多数の組み合わせを可能にし、ここから人間のことばの多様性、つまり、あらゆることを言い表せる幅の広さが生まれてくる。ことばのさらに徹底した分析は、これらの形態素、つまり意義の要素が、こんどは音素、つまり意義を欠いていて、もっと数の少ない調音の要素に分解され、その選別的弁別的な組み合わせ方が表意単位unite signigianteを提供することを示す。体系として組織されたこれらの空虚な音素が、あらゆる言語の基礎をなしているのである。   p68

4.言語記号の性質

2010/07/24 12:32 に 2010 seibunsite が投稿   [ 2010/07/24 12:37 に junichiro inutsuka さんが更新しました ]

ソシュールの能記・所記の構造における第三項

彼は所記という語によって概念をさしているが、まさにその同じ表現を用いて彼は「言語記号は、物と名称ではなく、概念と音響信号を結びつけるものである」と明言しているのである。しかしそのすぐ後、記号は所記に対して「現実におけるどんな自然のつながり」も持たないから、記号の性質は恣意的であると確言する。この推論が、はじめの定義に含まれていなかった第三項の、無意識の、陰で行われた援用によって、ゆがめられていることは明らかである。その第三項とは、物そのもの、すなわち実在物である。ソジュールは、soeur「姉妹」の概念が能記sorと結ばれていないと言うが、それにもかかわらず、この観念の実在物realiteのことを考えているのである。・・・はじめに記号の定義からはっきりと排除された物が、回り道を通ってそこにはいりこみ、永続的に矛盾を住みこませているのである。というのは、原理として-そして正当にも-言語は形式formeであって実質substanceではないとするなら-ソシュールもきっぱりと断言したとおり-、言語学はもっぱら形式の学であることを認めなけれならないからである。そこでsoeur「姉妹」やboeuf「牛」といった実質を記号の内包の外におく必要が、ますます緊急なことになる。ところで、一方ではbofと、他方ではoksと、同じ実在物との関係を恣意的とみなす根拠があるのは、ただ、boeuf「牛」という動物を具体的で実質的な特殊性において考えたときだけである。よって、ソシュールの、言語記号を定義するやり方と、記号に付与する基本的性質との間には矛盾があるのである。   p56

能記と所記、心的表象と音響心象は、実際には同じ一観念の二つの面faceであり、抱合するものとされるものとして一つにまとまって構成されているのである。能記は概念の音による音訳であり、所記は能記の心的対応物である。能記と所記とのこの共実質性consubstantialiteが、言語記号の構造上の統一を保障する。   p58

恣意的
恣意的であるというのは、他の記号ではなくてこの記号が、現実の他の要素ではなくてこの要素に適用されるということなのである。この意味において、そしてこの意味においてのみ、偶然性を問題にすることが許されるのであるが、それでもなおこの問題にある解決を与えるよりは、むしろひとまず注意を促しておいて、さしあたりはこの問題から手を引くことになろう。なぜなら、この問題は、かの有名な「自然か人為か」の問題にほかならず、天くだりの裁断にまたねば解決できないからである。実際これは、言語学の用語に置き換えられてはいるが、精神と世界との一致という形而上の問題であり、おそらくいつかは言語学者がこれに取り組んで成果をあげることもできようが、さしあたりは放置しておくほうがよい問題であって、この関係を恣意的として措定するのは、言語学者としては、この問題、および話し手sujet parlantが本能的にこの問題に下している解決から身を守る一方法なのである。話し手にとっては、言語と実在との間に完全な相等関係が存在する。つまり、記号は、実在を覆い、それを支配する。それどころか記号は、まさに実在そのものである。実をいえば、話し手の観点と言語学者の観点とは、この点においてあまりにもちがっているから、名称の恣意性に関する言語学者の断言も、話しての正反対の感じ方を論破するには至らないのである。・・・恣意性の領域は、こうして言語記号の外に追いやられてしまう。   p59

表意作用
変化したり、不変のままであったりするのは、能記と所記の間の関係ではなくて、記号と対象の間の関係、すなわち名称の対象に対する動機付けmotivation objectiveのことであって、そのようなものとしては、さまざまな史的要因の作用をこうむるのである。   p60

体系、必然性
体系とは、その諸要素の一段上に立ってこれを説明するある構造の中における、諸部分の配列と相応のことである。そこでは、すべてがまことに必然的であるから、全体と細部との変容は相互に条件付け合う。価値の相対性は、

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