授業から
twitterと授業
生活文化史の授業でtwitterの利用を試みてみたが、その可能性とともに、あらためて、ネットの現状の暗さを感じてしまう。
およそまともに論じることができるだけのスケールを備えないtwitterには何の魅力も感じなかった僕に、その可能性を知らせてくれたのは、前年、学科のシンポジウムに参加していただいた安斎利洋さんと中村理恵子さんだった。 その後お二人と、断片的な言葉がつながりの中でコンテクストをつくりだしてゆく遊びを楽しんでみたが、日頃日本語・日本文化の構造を論じながら、日本語の論理の可能性をあらためてお二人に指摘されるように思えたものである。 その会に参加していた学生達が、自然にその断片的言葉のつながりを紡いでいたのを見て、自分の教室にその可能性を持ち込もうと試してみたのだが、どうもこちらではそれがうまく働かないメンバーも多いのが現実だ。 twitterとは何か、どう使うのか、ということの、大衆的なイメージに自らの道具を貶め、ナントカなうのような言葉の捨て場所にしか見えない人が多いのだろうか。何を問い直せばいいのだろうかと考えてしまう。 |
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